ジキルは品川の倉庫街の一角にある、小さな事務所を訪ねた。
「オー、ジキルサン久しぶりネ。その節はドモアリガト!」
 商談相手の男は、数人のボディーガードを引き連れていた。いずれも体格のいい赤ら顔の男たちである。
 幹部はジキルをソファに座らせ、コーヒーをすすめた。
 「ココ、日本ノ暴力団カラ借リテイル事務所ネ。格安デ助カルヨ」
 「まあ……けど、金の話やから、ホテルとかの方がよかったんですけどねぇ」
 「金の受け渡しのコトも考えて、ココにしたのヨ。後のお楽しみネ」
 「はあ」
 ジキルはサイドの毛を指で梳きつつ、男の話を聞いていた。
 目の前にいるのは、とある国の武装勢力の幹部……要するにテロリストである。
 じきる堂にとっては、テロ集団も大事な客なのだ。
 「日本、静かで良い国。来る度に驚くヨ」
 「まあ……お宅さんらの国に比べたら、どこでも平和なんちゃうやろか」
 傭兵時代の思い出が頭をよぎり、少しジキルは嫌な気分になった。
 その後、しばらく二人は世間話に花を咲かせた。
 ジキルは適当に相槌を打ちつつ、不味いブラックコーヒーを飲み干した。
 「サテ、それじゃ行きマショウ、ジキルサン」
 「へ? 金の支払いやったら、ここでええんじゃ……?」
 「金塊で用意してるヨ。マグロの腹に入れて密輸したネ」
 「何や、それやったら車で来たらよかったなぁ」
 「ちゃんと、我々がお送りしマース。心配無用ネ」
 男に促され、ジキルは立ち上がると、あとをついて行った。
 テロリストたちはどんどん勝手に進み、冷凍倉庫の前で立ち止まった。
 「この中に隠してありマス。一緒に行きマショウ」
 「いや、ワシここで待ってるから、持って来てくれたら。何やったらマグロごと」
 ジキルの頭の中では、すでに大トロの握りが二カン並んで皿に乗っていた。
 「いけまセーン。ちゃんと中を確認してもらいたいネ」
 「いや、ワシこない格好やし。寒いて」
 指まで隠れる黒いロングTシャツの袖をピラピラと振りながら、ジキルは渋った。
 その時、背後にいたボディーガードが、ジキルの首根っこを掴んだ。
 厚い倉庫の扉が開く。その中に、幹部は足を踏み入れた。ジキルも後ろから強引に押され、中に放り込まれる。
 「寒っ……」
 思わずジキルは、両手で自分の体を抱いた。
 テロリストの男はどんどん先へと進んで行く。仕方なく、ジキルも後を追った。
 殺風景な倉庫の中は、天井近くまで積み上げられた箱と、今は動いていないフォークリフトがあるのみだった。
 「確か、このへんの積み荷デース」
 男はジキルの前をゆっくりと歩いた。さすが、日本よりもずっと寒い国に住んでいるだけのことはある。顔色一つ変えていない。
 ジキルは肩をすくめ、男の背中を見つめながら、大きな欠伸を一つした。
 その瞬間。
 いきなり振り向いた男が、ジキルの顔にスプレーを吹き掛けた。
 その霧を吸い込んだジキルは、激しく咳き込み始めた。
 「ゴホッ! ゴホッ、ゴホッゴホッ!」
 慌てて催涙スプレーの霧を払いながら、その場にうずくまる。
 その脇を幹部がすり抜け、出口へ向かって疾走した。
 「何すんねん、ドアホッ! ゴホッ、ゴホンゴホンッ!」
 男が外へ出たと同時に、冷凍倉庫の厚い扉が閉まる。
 「くそ〜〜っ、ダマしよってからに……料金踏み倒すつもりかい……」
 ジキルは涙を流し、鼻と口を押さえながら、立ち上がろうとした。
 刹那、強烈な睡魔が襲い掛かって来た。
 「な、何や、立てへん……」
 ジキルはその場にがっくりと膝をつき、倒れ込んだ。
 咳と涙が止まらない。大きく息を吸う度に、冷気が肺に流れ込んでくる。
 しかし、今は寒さよりも咳よりも涙よりも、睡魔の方が深刻な問題だった。
 「く、薬……? あの、コーヒーやな……アホンダラ……!」
 こんなところで眠ってしまったら、数時間で凍死である。
 ジキルは何とか冷気を防げる場所を探そうとした。が、体が動かない。
 スッと意識が遠のいて行く。頭がぼんやりし始めた。
 耐え切れず、ジキルはその場にバッタリと倒れた。
 その時、駆け寄ってきた人影が、ジキルを支えた。
 「あんちゃん!」
 「……?」
 「あんちゃん! あんちゃん!」
 誰かに強く体を揺すぶられ、ジキルは目を開けた。
 「ア、アル……?」
 ジキルの瞳に、心配そうにこちらを覗き込んでいる従弟の顔が映った。
 アルフレッドはジキルの頬を何度も叩き、話しかけた。
 「あんちゃん、ゴメン……ここ入る前に助けたかったンヤケド……」
 「た、助ける……て、お前、何でここにおんねん……?」
 「話はあとヤ! もうちょいしたら、ボクの部下たち助けに来るサカイニ」
 「部下……? って、アル、お前……?」
 そこまで言って、ジキルは口を閉じた。寒さで、口がうまく回らない。
 おまけにジキルは、睡眠薬入りのコーヒーを飲まされている。
 薬もほどよく効いて、体からはすべての力が抜けようとしていた。
 「あんちゃん、寝たらアカン! 寝たら死ぬデ!」
 「そ……そない、言われて、も……」
 ジキルは両手で体を抱き、ぶるぶると震えた。
 寒さと睡魔に体を支配され、まともに喋ることもできなかった。
 アルフレッドは、自分のジャケットをジキルに羽織らせると、その上から小さな体を抱きしめた。
 「マンガみたいには抱けヘンのヤ。心臓圧迫するサカイニ……」
 このような場合、漫画やドラマなどでは裸になって抱き合うのだが、実際はあまり意味がない。体の表面を圧迫すると、それだけ血流が多く心臓に送り込まれることになり、負担がかかってしまうのだ。
 アルフレッドはジキルをその場に寝かせ、近くの箱を破壊し始めた。
 段ボールでも何でも、とにかく冷気を遮断するものが必要だった。
 手近な物で衝立を作り、アルは再びジキルを抱き起こした。そして、床の上に段ボールを敷き、その上に寝かせる。
 「あんちゃん、寝たらアカン!」
 「……」
 「あんちゃん! ジョナッ!!」
 かなり体が冷たくなっている今、体を揺さぶることは危険だった。
 アルフレッドは大声で呼び掛ける他はなかった。
 「あんちゃんあんちゃん、『光あるところに影がある』」
 「……あ、うう……ま、まこと、栄光の……」
 「その後は? 『影に』……?」
 「か、数知れぬ、忍者の姿があった……」
 子供の頃にジキルが好きだったアニメのオープニングナレーションである。
 「『命をかけて歴史をつくった影の男たち』」
 「だ、だが人よ……名を、問うなかれ……」
 「『闇にうまれ闇に消える』」
 「そ、それが……忍者の……さだめなの……だ……」
 「パパパパー、パララパララパララパーララー」
 「サスケ……お前を、斬る……っ! ……」
 「あんちゃん、ニンジャ好きヤ言うてたヤンカ! ニンジャは、こないトコロで死なへんデー」
 「う、ううっ、アル……ワシは……」
 力なく持ち上がったドキルの手を、アルフレッドが握った。
 「ジョナ、ボクはジョナのために……シャドウ・ウォリアーになったんヤから……」
 「……アル……お前、あの時の……?」
 「ボク……軍人ちゃうケド……CIA入ったんや……ゴメン、黙ってて……」
 「し、C、I、Aが……」
 「ん? 何?」
 「何で……胸に、『CIA』て書いたTシャツ、着とんねん……」
 ジキルは地味に突っ込みを入れた。
 「ジョ、ジョニー・デップが映画で着てテン」
 「あれや……アントニオ・バンデラスとのやつや……」
 「ソウソウ。あれ、ジョニーの私物やったらしいデ」
 頷きながらアルフレッドは、自分のあらわになった両腕を軽く擦った。
 ジキルと違って意識がはっきりしているとは言え、急激に摩擦することはできない。
 しかし今は自分のことよりも、目の前の従兄のことが一番大事だった。
 アルフレッドは必死で、ジキルに話しかけ続けた。
 「あんちゃん、ココントーザイ、忍者の名前っ!」
 「う……き、霧隠才蔵……」
 「猿飛佐助」
 「服部……半蔵……」
 「風魔小太郎」
 「百地丹波……」
 「あんちゃん、マニアックやナー。普通それ百地三太夫て言うがナ」
 「ワシは……別人説、取ってんねん……三太夫は丹波の孫やねん……」
 「ほな、カムイ」
 「四貫目……」
 「あんちゃん……普通、ワタリから先に言うがナー」
 ジキルのマニアぶりに困惑するアルフレッドであった。
 そうしている間にも、時間は刻々と経過して行く。
 アルフレッドは段ボールを折り畳み、ジキルの体に巻き付けた。
 「あんちゃん、昔、うちの屋根裏部屋、探検したこと覚えてるカ?」
 「あ、ああ……ワシとアルと……ライアンの三人でや……」
 「後で、こっぴどく怒られたナー」
 「あん時……100年前ぐらいの……本、出てきて……あれ、売ったらええ値段や……思うて、ワシ……」
 「ディビットに取り上げられテン」
 「そやったわ……おかんにもワシ、えらく怒られたわ……」
 二人は、子供の頃の思い出を語り合った。
 ジキルの眠りが深くなりそうになると、アルフレッドは彼の頬を叩いて起こした。
 「あんちゃん、もう少しの辛抱ヤ……くそ……一体何をモタついて……」
 アルフレッドはイライラしながら腕時計に目を落とした。
 このまま閉じ込められていたら、自分はともかくジキルがもたない。
 「アリサと……」
 不意にジキルが言葉を発した。
 「んっ?」
 「アリサと、約束したんや……。今日、鍵盤ハーモニカの練習、するて……」
 「そうヤデ、あんちゃん! げんこつ一万回食らうデ!」
 「針千本、飲まされるもんなぁ……頑張らんと……なあ……」
 ジキルの脳裏にアリサの笑顔が浮かんだ。
 しかし、すぐにそのイメージはかき消えた。意識が勝手にジキルから離れて行こうとしている。
 覚醒したままでいることが、ひどく面倒臭かった。
 このまま気を失ってしまえば、苦しまずに済むとも思った。
 暗闇が、しきりにジキルを手招きしている。ジキルはその誘惑と戦い続けていた。
 しかし……、もう限界だった。
 「アル……ワシ、もうあかんわ……」
 「何言うてるネンッ! もうじきヤンカッ!」
 「すまん……」
 「あんちゃ……ジョナ! ジョナッ!!」
 「ジャック……」
 「あんちゃん?」
 「ジャック……アリサ……スバル……すまん……」
 「あんちゃん、しっかり! 寝たらアカンて!」
 アルフレッドは、思わずジキルを抱きしめた。
 冷たくなった手を握り、頬を合わせる。
 かれこれ、閉じ込められて数時間になる。
 ジキルの意識はすでに混濁し、危険な状態だった。
 「Shit! ジョナが死ぬようなコトあったら、あの国のテロ組織一掃ヤ!」
 アルフレッドはいきり立った。
 その時だった。
 壁の向こうで、何か音がする……と、不意に分厚い扉が勢いよく開いた。
 幾筋もの高輝度LED特有の白色光が、薄暗い冷凍倉庫の中を走査する。
 「遅いっちゅうネンッ」
 アルフレッドは関西弁で独りごちると、大声で光源に向かって叫んだ。
 「ここだ! 安全を確保して進め。本部に連絡、対象は低体温症の恐れ有り!」
 フラッシュライトの真っ白な光が、ジキルとアルフレッドを照らし出す。いつもの黒装束集団が、二人に駆け寄った。
 「大丈夫か、フォッグハイド。立てるか? 遅れてすまん。敵が予想外に重装備で、制圧に時間がかかってしまった」
 二人を抱き起こしながら、黒装束の一人が到着の遅れを詫びた。
 冷えきった体に、人間の体温が触れた。その温かさにジキルはホッと息を吐き、がっくりとうなだれたかと思うと、意識を手放した。
 その後数秒の会話だけは、ぼんやりと耳に流れ込んできた。
 「対象はキャンプ座間に搬送する。ちょうど、専門の軍医がいるんだそうだ」
 「それはよかった、とにかく急いでくれ!」
 「クリアランスが取れたら、すぐに離陸する」
 が、……すぐにジキルは、何もわからなくなった。
 男たちはジキルを毛布でくるむと、ヘリコプターに運び込んだ。
 倉庫の外は、血の匂いが充満していた。ジキルを陥れたテロリストも、もはや息をしていない。
 それらのものを後目に、ジキルを乗せたヘリコプターは慌ただしく品川から飛び立った。
  
  
 シャドウ・ウォリアー-03へ続く
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