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「……で?」

ソファに座って足を組んだ夏樹が、鬼のような形相でそう尋ねた。
ジキルはカーペットの上に正座させられ、小さくなっていた。
チラリと夏樹の顔を見上げる。ちょっとしたホラー映画のような顔がそこにあった。
ぶるぶると身震いして、ジキルは両方の人指し指の先をくっつけ合わせた。

「もっとわかるように説明してよ。そもそもこのエメラルドは何なわけ?」
「はあ…、それは19世紀末のヨーロッパで作られた像の……」
「それはもうわかったってば。で、その『目』が、どういうことになってたんだって?」
「せ…世界中のコレクターが……そのう……」

夏樹はテーブルをドンと叩いた。
テーブルの上のカップが倒れ、コーヒーがバシャッと零れる。
慌てず騒がず、マネージャーが布巾を持ってきて丁寧にテーブルを拭いた。

「だーかーらー、どうして盗んだりしたのかって聞いてんだよっ!」
「そ、そそそ、それは、その……。とあるコレクターが裏で呼び掛けをしてまして」
「そうそう。それを話せばいいんだよ」
「手に入れたら、倍の値段で買い取ってくれる、いうことで」

ジキルはぎこちなく、夏樹にすべてを説明した。
そもそもこのエメラルドは、数十年前、博物館から盗まれたものだった。
その後、世界中の富豪の手を点々としていたという。
ところが最近、これがオークションに出されたらしいという噂が広まった。
落札したのは日本人の実業家だというところまで、調べはついていた。

「だから、ワシみたいなもんにも連絡が来てたんですわ。日本人やから。でもワシ、宝石のことなんぞわからんから、放っておいたんやけど」
「僕が持ってるのを見て、これだと確信したわけね? どうしてその時、言わなかったの?」
「せ…せやかてナッキーさん、喜んではったから」
「僕はこんなのどうだっていいんだよ。ジキルが欲しいって言ったら、あげてたよ」
「へ? ホンマですかっ?」
「だって僕の目は緑じゃないもの。ジキルの方が似合うもの。だから、PVの撮影が終わったら、これ、ジキルにあげてもいいと思ってたのに」
「そ…そやったんや……」

ジキルはがっくりと肩を落とした。
そのそばで、シュポッとライターの音がした。槍介が煙草に火をつけている。

「友達ってのはそういうもんだ」
「……」
「お前、日向夏樹の友情を裏切ったんだぞ。何か言うことはないのか?」
「す…すんません……」

ジキルは深く頭を下げた。
夏樹はまだ怒りがおさまらない様子で、ジキルを睨み付けていた。
彼の膝の上には、二つのチョーカーが並べられている。それぞれに30.17カラットでオーバル・カットのエメラルドがはめ込まれていた。
夏樹はしばらくの間、じっくりと二つのエメラルドを見比べた。

「ホントにすごい似てる。並べてみないと、色の違いなんかわかんないよ」
「そ…そりゃあもう、そっちもかなり高かってんもん。でっかい原石で買うて、加工屋に頼んで、無理言ってオーバル・カットにしてもろて……」
「まさか、そこから情報が漏れるとは思ってなかっただろ」

槍介が割り込んだ。
確かにあの強盗団は、『オマエが仕事を頼んだヤツが口を割った』と言っていた。
おそらく強盗団は最初から、裏で活動する宝石加工職人に目を付けていたのだろうと槍介は言った。
幻のエメラルドが見つかれば、絶対にイミテーションを制作させるために動く人間がいるはずだと読んだのだ。
ジキルはそれにまんまと引っ掛かったのである。

「ソースケは最初からわかってたの?」

夏樹が尋ねた。槍介は静かに答えた。

「お前さんの護衛をしてても、何も起こらないんでな。嗅ぎ回ってる奴もいないし、まったく狙われてる気配がない。おかしいと思って、ちょっと裏で調べてみたんだ。何のことはない、強盗団は最初からこいつに狙いを絞ってたのさ」
「どうしてそれがわかったの?」
「俺も宝石加工職人に当たりをつけて情報を集めた。こいつが俺の前で取引の電話をしてるのを聞いた時から、何か企んでやがるとは思っていたからな」
「それで、このイミテーションが本物のエメラルドを使って作ったいうことまで知ってたんやな、あんた」
「お前が仕事を頼んだ奴は口が軽くてな。お前の名前まで出して教えてくれたぜ。おそらく強盗団にも、同じように喋ったんだろう」
「はああ……人選ミスやったんか……」
「じきる」

夏樹が強い口調で呼び掛けた。
瞬間、ジキルは姿勢を正した。

「はいっ!」
「あの時、すり替えたんだよね? 生地を替えるからって向こうの部屋に行った時に」
「はいっ、そうです」
「あの短い時間で緑色の生地を全部付け替えて、チョーカーまですり替えたなんて……」
「いや、生地は替えてへんのです」
「えっ? でも……あっ!」
「もともと、偽物の方に合わせて選んだ緑色や。エメラルドを交換したら、色がしっくりくるんは当たり前なんですわ」
「最初から、そのつもりで生地を……」
「ハイ」
「ジキル。ねえ、自分のしたこと、わかってる? 僕はジキルにとって何なの?」
「ナッキーさんやから、偽物いうても高価なエメラルドを選んだんですわ。少女の像の『目』やいう付加価値なければ、同じぐらいの値段でっせ」
「値段とかそういう話じゃなくてさ。バレたらどうなるかって、考えなかったのかってこと。僕、ジキルのこと死ぬまで怨むかもしれないんだよ?」
「そ…それは困ります! すんませんっ! もうしませんっ!」
「いや、謝って欲しいんじゃなくてさ。もうっ。どうして最初からそれがわかんなかったのかと……」

必死で額をカーペットに擦り付けるジキルの姿に、夏樹は呆れ返った。
そんな夏樹に、槍介が声を掛けた。

「無駄だ。こいつはそういうのがわからないんだ。道徳とか、モラルとかがな」
「そんな……あり得ないよ」
「だから武器の密売なんかができるのさ。こいつの中には善悪を判断する基準がまったくない。良いことも悪いことも区別がつかないんだ。ただ、その時の感情と、損得で動いてる。それだけだ」
「アイデンティティどころか、何のポリシーもイデオロギーもないんだ……」
「そこにこいつの師匠は惚れ込んだ。下手に道徳観念なんか持ってたら、武器商人になんかなれないだろ? こいつはそういう世界で生きてる」
「……」

唖然として、夏樹はジキルを見下ろした。
すっかり気が抜けて、怒ることもできなくなってしまった。

「もう……いいよ、ジキル。僕、こっちの方のエメラルド貰うから」
「えっ? ほな、本物はワシに?」
「ばかっ! 博物館に返すに決まってるだろっ!」
「そんなもったいない……」
「これはもともと博物館の物なの! 盗んだり、売ったりしたらいけないの!」
「は? そうなん?」
「そんなこともわかんないの……? ジキル……」

ジキルはきょとんとして、夏樹を見上げている。
彼に悪気はまったくないのだ。物事の辻褄さえ合わせればいいと信じている。
値段さえ同じものなら、勝手にすり替えても構わないと思っている。
自分の何が悪かったのかも理解できていない。
夏樹は深い溜め息をついて、試しに一言言ってみた。

「じきるのこと、嫌いになるよ」
「えーっ! そ…そんなぁ! すんませんっ! もうしませんっ!」
「カッツェくんにも言い付けちゃおーかなぁ」
「ぎゃー、それだけはっ! あのお方には何とぞ……」
「バレるに決まってるだろっ! これから[イーハトーボ]行くんだからっ」
「あああああ〜〜〜〜、ワシ、なんてことしてもうたんやろか〜〜〜!」

ジキルは頭を抱えて、床でのたうち回った。ようやく罪悪感が沸いてきたようだ。
夏樹は納得したような顔で、何度も頷いた。

「ホントに感情だけの子なんだぁ。面白ーい」

そう言って、槍介を見上げて笑う。
槍介はフッと笑って、吸い終わった煙草を灰皿で揉み消した。

     *

「うううう……ひっく…ひっく……」

ジキルはカウンターに突っ伏して泣いていた。すでに相当、出来上がっている。
新宿にあるバー[イーハトーボ]に、常連客の三人が押し掛けた。
マスターは槍介の顔を見るや、小さく舌打ちした。かなりツケが溜まっているらしい。
黒髪の小柄なウェイターが、その様子を見て含み笑いをした。
夏樹は泣き崩れるジキルを横目で見つつ、隣に座った槍介に話しかけた。

「ちょっと虐めすぎちゃったかな?」
「こいつは悪いことをしたなんて、これっぽっちも思っちゃいない。ただ、お前さんに嫌われたかもしれないことが悲しいだけだ」
「今回、よーくわかったよ。ジキルのこと。やっぱこの子、面白いや」

夏樹は笑いながらジキルの肩を抱いた。
それを見て、ウェイターは目を細めて微笑んだ。
不思議そうな面持ちで、夏樹が尋ねる。

「ヒデくんはさ、僕とジキルが一緒にお店に来ると嬉しそうだよね? どーして?」
「さあ……。どうしてでしょうね。お二人のことが好きだからかな」
「えへへ。そう言われると嬉しいよ」

夏樹が照れ笑いをした時、横でブツブツとジキルが話し始めた。

「……でな。左腕も折られてん」
「ん? イラクにいた時の話? よく話すなあ、酔っぱらうと」
「その後に爪剥がされて。痛ぁても腕、動かせへんしやな……」
「ひいいい〜っ。その話はもうやめてよぅー」
「クライマックスはこの後や! ワシの左目が最後に見たもんはな……」
「いやあぁぁ〜。その話は恐いいぃぃっ!」

普段は過去を話さないジキルだが、酔うと饒舌になった。
刺激が強過ぎる話題のため、他に客がいる時は黙らせるのが大変だった。
ジキルは泣きじゃくりながら、独り言のように話を続けた。

「日本人やいうだけで、ミズシマ呼ばれてな〜」
「あ、ミャンマーの話になった」
「オウムはおるし」
「嘘だぁ。イッショニニッポンニカエロウって?」
「オウムはウソやけど、ミズシマはホンマや〜。もー、ワシはなぁ、ジキル以外の名前で呼ばれたないねん。もう、ホンマ、嫌やねん……」
「そんなに自分の名前が嫌いなの?」
「嫌いなんて言うてへん。大人の都合で呼び方変えられんのが嫌なだけや……」

服の袖が涙でグシャグシャになった。
ウェイターの浜英人が温かいおしぼりを差し出す。
ジキルは眼帯を外して顔を拭いた。これもまた、他に客がいたら、慌ててやめさせなければならない行為だった。

「あのクソジジイ! ワシを連れ回して楽しんでたんや。頼んでもおらんのに、傭兵なんぞにしおってからに……」
「やれやれ、またジャックの話か。好きだな」

ショットグラスのボンベイサファイアをグイッと飲み干して、槍介が相槌を打った。

「あー、ムカつくわ! 気がついたらワシは輸送機の中や! 平和な日本から連れ出されて、上空から突き落とされてんぞ!」
「着地訓練はしたんだろ」
「そらぁもうバッチリと……って、そういう問題ちゃうわ! その後、ユーゴスラビアやろ。空爆始まってからやど! ……で、いったん南米行って、最後はチェチェンや! 最悪や! チェチェンはっ! 眼帯してるだけでテロリストと間違われて……危うくまた拷問されるとこやってん!」
「紛争地域のハシゴだよね。辛かったね、じきる」

夏樹がもらい泣きをしながら、優しく頭を撫でた。
ジキルは声を上げてエグエグと泣き出した。

「おいおい、甘やかすなよ」
「だって、泣くからさ〜。可愛くて、放っとけないんだよね〜」

夏樹はジキルの頭を撫でくり回した。
ジキルは何かを思い出すような目で、遠くを見つめた。

「あのどアホ……クソジジイ……死んでまえ……」

ヒックヒックとしゃくり上げるジキルであった。
夏樹は優しくジキルの涙を拭き、ギュッと抱き締めた。傍目には、子犬かぬいぐるみを抱擁しているようにも見える。
しばらくして、黙っていた槍介が口を開いた。

「戦場で、仲間が目の前で死んだりして……ショックを受けた兵士には、絶対に休息を与えないんだ。どうしてかわかるか?」
「……わからん」
「考える暇を奪い取るのさ。じゃないと、心が壊れちまうだろ。だからできるだけ、忙しくさせておく。そうすれば、次第に辛いことは忘れる。時間が心を癒してくれるんだ」
「だーっ。それが何やねん。何やっちゅうねん」
「お前、イラクで失明してすぐ、ジャックに連れ回されたんだったよな?」
「そうやで。日本戻って、大晦日に紅白見て、正月明け早々や。な〜んも落ち着けへんかったわ。どかどかアパート入ってきて、ビルマで竪琴弾かんかーて、言うて、ワシ連れて……あのクソジジイ……。……。……ジャック……。ジャッ…ク……」

ブツブツと呟く声が、次第に寝息に変わった。
槍介と夏樹は顔を見合わせて笑った。
英人はマスターがくわえた煙草に、ライターで火をつけた。
常連客が揃った[イーハトーボ]の、いつもの風景であった。

     *

「じきるー、スバル来てるよ。髪の毛、あらったー?」

アリサの声が耳元で響く。
ジキルは目を開け、寝返りを打とうとした。
その瞬間ズキンと頭が痛み、ジキルは悲鳴を上げた。

「痛たたたた。飲み過ぎたわ……」

両手で頭を抱え込み、布団の中で丸くなる。
昨夜、どうやって家に帰ってきたのか、まったく覚えていない。

「たんていさんが送ってきてくれたんだよ! 覚えてないの?」
「あー、そやったんか。迷惑かけたなー」
「ねー、ジキル。アリサのごはんはー?」
「すまん。スバルにどっか連れてってもろて。ワシ、動けへんわ……」
「もーっ!! スバルー! ジキルがひどいのー! いじわるするのー!」
「い、意地悪なんぞ、してへんがな〜」

怒って出ていってしまったアリサを追い掛けようとして、ジキルは手で口を押さえた。

「あかん、スバル〜! せ…洗面器〜〜〜っ!」

こうして、今日も慌ただしくジキルの一日が始まるのだった。
昨日起こった出来事も、これから起こる出来事も、ジキルにとっては日常の一ページにしか過ぎない。
ジキルの自分探しの旅は、まだまだ続くのである。

(了)
 

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