ミリタリーショップ[じきる堂]は、同じビルの六階にあった。
 アリサを学校へ送り出した後、ジキルは七階の住居から六階へと階段を降りる。
 店を開けるのは11時だったが、それまでの間、彼は一人で店鋪の中で過ごすことを好んだ。
 この時間が、ジキルにとって唯一のくつろげる時間であった。
 コーヒーを飲みながら洋服のデザイン画を描いたり、レザークラフトの型を切ったり、簡単な作業はここでこなす。
 工房は七階にあるのだが、放出品に囲まれていた方が気分が乗りやすいというのが、一番の理由だった。
しかし今日は、いつものようにくつろいでいる暇はなかった。
 ジキルは自分で髪を乾かしてブラシで梳き、スーツを着用して六階に降りてきた。
 彼が選んだのは、ジャーマングレーのマオカラーのスーツだった。ネクタイを絞めるのが苦手なジキルの、定番スーツである。小柄で童顔のため、一歩間違えると学生服に見えてしまうのだが、それは着こなしでカバーできると本人だけは思っていた。
 店のドアの鍵を開け、ジキルは中へ入って行った。
 放出品特有の消毒薬の匂いが鼻をつく。
 店内は、所狭しと商品が並べられている。二段式のパイプハンガーには、ずらりとジャケット類が並ぶ。オリーブドラブ単色、カーキ色、迷彩と、種類も様々だ。
 ジャングルブーツは床に置かれ、ショーケースには階級章や勲章。シャツやセーターなどはきちんと棚に積まれていたが、マガジンポーチや幅広のベルトなどの小物類は、雑多に布製のバケツに放り込まれている。首から上がないマネキンが、野戦服をまとっていた。
 すべては、米軍が放出した実物である。
 放出品の入札業者として店が創業したのは五年ほど前のことだった。
 「三時間目、か。あかんなあ」
 ジキルはレジカウンターで、カレンダーと時計を交互に見て呟いた。
 今日が父兄参観日であることをすっかり忘れていたため、午前中に商談の予定を入れてしまっていたのである。
 電話の受話器を取り、番号を押す。幸いすぐに電話は繋がった。
 「あー、もしもし? こちら、じきる堂ですけどォ」
 ジキルは流暢な英語で話し掛けた。
 すぐに、声を潜めた相手の返答があった。
 『君か。どうしたんだ? そろそろ約束の時間だろう』
 「いや、それがちょっと時間をずらして欲しいんですが……」
 さすがに養女の父兄参観日なのだとは言えず、ジキルは適当な言い訳を述べた。
 受話器の向こうにいる男は、困ったような唸り声を二秒ほど上げた後、仕方がないというふうに納得した。
 『いいだろう。そのかわり急ぐんでね。できるだけ早く来てくれたまえ』
 「はい、了解」
 『サンプルは忘れないでくれよ。それがないと、上に話を通せない』
 「一個でいいんでしたっけ?」
 『ああ、頼むよ』
 すぐに電話は切れた。
 ジキルはホッと息をつき、受話器を置いた。
 持って行く品物は、すでにカウンターの上に用意してあった。
 それをスーツの内ポケットに無造作に突っ込むと、ジキルはガーゴイルズサングラスをかけた。
 さすがに、父兄参観日に眼帯をするわけにもいかなかった。
 眼帯は、アリサの学校を出た後に着けるべく、スーツのポケットに入れてある。
 ジキルは店を閉めると、臨時休業の札を掛け、アリサの学校へと向かった。
      *
 アリサは、公立の小学校へ通っている。
 インターナショナル・スクールに通わせたいとジキルは思ったのだが、公立を選んだのはアリサ本人だった。公立の方が、家から近く通いやすいからである。
 将来的に母国へ帰るかもしれないアリサに日本語を学ばせていいものか、ジキルは未だに悩んでいた。しかし、答えは出なかった。
 ジキルは教室の後ろから、アリサの姿を見つめていた。
 黒い服によく映える金色の髪は、クラスの中でも異質だった。
 時折、ジキルの横の方で小さく、あの子外人? という声が聞こえた。
 平日であるため、保護者は母親ばかりだった。
 児童の中ではアリサは目立っていたが、保護者の中ではジキルが一際目立っていた。
 「ねー、あれ、誰のパパ?」
 「アリサちゃんのパパだよー」
 「かっこいー」
 「でも、ほんとのパパじゃないんだってェ」
 授業中だというのにヒソヒソとお喋りをする女児たちが、代わる代わるジキルを振り向いた。アリサは聞こえていないのか、平然と教科書に目を落としている。
 ジキルが来ていることは承知しているはずだが、それよりも勉強に夢中の様子だった。
 アリサは日本の学校や、友達のことが大好きだった。誕生日やクリスマスには、家に大勢のクラスメイトを連れて来た。
 アリサが突然、ジキルの前に現れた日から三年。義理の父親という役割にも慣れてきた。
 アリサもまた、本当によくジキルに懐いていた。
 『アリサね、ずーっとジキルといっしょにいて、ジキルのおよめさんになってあげる!』
 将来のことはわからない。ジキルにそれを決める権利はない。
 彼はただ、命令に背くことができなかった。それだけだった。
 保護者が見守る中、女教師は緊張しながら授業を進めていた。
 ジキルがガーゴイルズサングラスをかけたままでも、何も言わなかった。
 去年、アリサが小学一年生の時の父兄参観日は大変だった。
 教鞭を取っていたのが校長であったため、ジキルはやんわりとサングラスを取るように言われた。
 言われた通りに外したところ、校長はジキルの顔を見て卒倒してしまった。
 それ以来、アリサの保護者は片目を失明しているのだということを、学校側も認識してくれたようだった。
 あらかじめ伝えておけばよかったということにジキルが気がついたのは、半年ほど経ってからだった。
 そんなボケてる社長も素敵っす。そうスバルに言われたことを思い出した。
 窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえる。
 まもなく三時間目も終わろうとしている。
 その時だった。
 「ん……?」
 ジキルは、ちらりと視線を廊下の方向に投げた。
 教室の廊下側の壁は、曇り硝子の窓になっている。そこに、人影が映っていた。
 背の高い男性のようだった。授業参観に遅れてきた父兄だろう。
 しかし、ジキルは妙な胸騒ぎを覚えた。
 そこへ、もう一つの人影が現れた。
 「何年何組をお捜しですか?」
 校舎内で迷ってしまった父兄を案内する教師だろう。授業中であることを気遣い、小さな声で尋ねている。
 二人は、二言三言、言葉を交わしている様子だった。
 しかし、なかなか歩き出す気配はない。小声で何か、言い争っているようにも見える。
 ジキルが不審に思った、その瞬間……!
 バンッ!!!
 乾いた音が廊下に響いた。
 爆竹のような音だった。
 「……っ!」
 とっさにジキルは身を屈めた。
 ジキルにとっては聞き覚えのある音である。それは紛れもなく、銃声だった。
 児童たちはぽかんとしている。女教師は固まったままで喋らない。
 保護者たちは、何が起こったのか理解できていないようだった。
 ここにいる誰も、本物の銃声など聞いたことがないはずだ。状況がわからないのも無理はない。
 教室がざわめく中、ジキルは小さな声でアリサを呼んだ。
 「アリサ」
 「じきる…」
 アリサが振り向いて、心配そうにジキルの姿を探した。
 ジキルは片手を上げて掌を下に向け、伏せるように指示を出した。
 その時、もう一発銃声が響いた。
 男が二発目を発砲したのだ。
 今度は盛大な音がして、廊下の、屋外に面した窓ガラスが割れた。
 騒ぎが大きくなることを予測し、ジキルはもう一度アリサを呼んだ。
 「アリサ、伏せろ!」
 アリサはすぐに理解して、机の下に潜り込んだ。
 彼女のその動作とほぼ同時に、廊下で教師らしき人物が大声を張り上げた。
 「不審者だ! じゅ、銃を持ってるぞ!」
 その瞬間、静かだった教室内はパニックになった。
 このクラスだけではない。壁を隔てた隣からも、児童たちの悲鳴が聞こえて来る。
 ジキルは他人に見られないように、そっとサングラスを上に持ち上げた。額を滑らせ、下ろしていた前髪を持ち上げる。そしてカチューシャのように前髪を止めて押さえると、スーツのポケットから眼帯を取り出し、左目に装着した。
 とにかく何が起ころうとも、アリサの身の安全だけは確保しなければならない。
 けたたましく非常ベルが鳴り響いた。
 女教師はガタガタと震えたまま、黒板の前で座り込んでいる。
 母親たちは我先にと自分の子供の席に駆け寄り、我が子を抱き上げた。
 走り回る大人たちによって机や椅子がめちゃめちゃに動き、倒れた机の下敷きになる児童もいた。
 ジキルは乱雑に散らばった机を退けながら、アリサに駆け寄ろうとした。
 アリサは机の下で膝を抱え、息を潜めていた。
 周りがどれだけ大騒ぎになろうと、泣き声ひとつ上げずにじっとうずくまっている。
 『なんて神経の太いお姫さまだ。そう思わないか、ジキル?』
 思い出したくないしゃがれた声が頭の中に甦り、ジキルは舌打ちした。
 その時、唐突に教室の引き戸が乱暴に開けられた。
 拳銃を構えた男が、ずかずかと教室に踏み込んで来た。
 「キャーーーーッ!!!」
 母親の一人が絶叫した。
 その声が、一層、そこにいる人々の錯乱を煽った。
 「動くなっ! 静かにしろ!」
 男が叫んだが、教室内の混乱はおさまらなかった。
 児童たちは泣き叫びながら、親を探して教室の後ろへ走り出した。
 教室全体がパニックだった。親たちも、悲鳴を上げながら教室内を右往左往していた。
 「動くなっつってんだよっ!!」
 男はもう一度大声を張り上げ、教室の後ろに固まった人々に拳銃を向けた。
 後ろの扉から逃げ出そうとしていた者は、銃口を向けられて、へなへなと腰を抜かした。
 男は息を荒げながら教室を見回していたが、突然、一人の女児の腕を掴むと、引き寄せて抱え込んだ。
 恐怖のあまり、椅子から立ち上がることさえできなかった子だった。
 「てめえら動くんじゃねえ。ちょっとでも動いたら、このガキの頭、吹っ飛ばすからな」
 ジキルは人質の保護者を探した。
 しかし、誰も人質の女の子の名前を呼ばなかった。
 母親たちはそれぞれに自分の子供を抱きかかえ、ぶるぶると震えながら成りゆきを見守っている。
 「おい! こいつの親はどいつだ? 娘が可愛かったら、前に出ろ!」
 誰も、名乗り出なかった。
 男の腕に抱えられた女児は、ぽろぽろと涙を流しながらも、一言も声を発しなかった。
 その子の親は今日、この場所に来ていない……。
 そうとわかったジキルは、とっさに両手を上げて立ち上がった。
 「ワシや」
 アリサが机の下から、驚いたような顔でジキルを見つめた。
 ジキルは一瞬、アリサに目配せをした。
 アリサは黙ったまま、こくりと頷いた。
 ジキルは両手を上げたまま、ゆっくりと机の間を縫って歩いた。
 教室内は、水をうったように静まり返っていた。
 男はジキルの黒い眼帯に驚いたようだったが、特に反応せず、子供の頭に銃口を押し付けたまま、教室の外へ出た。
 そして、
 「一緒に来い。妙な真似しやがったら、ただじゃおかねえぞ」
 と、凄んでみせた。
 ジキルは、ちらりと男の持っている拳銃を確認した。
 トカレフTT33。悪名高いロシア製の拳銃だ。
 (トカレフか…。ちと厄介やな……)
 ジキルはスーツの下にボディアーマーを着込んでいた。
 防弾性能はレベル3A。.44マグナムをも完全にストップすることができる。
 しかしトカレフには対応していない。スチール・コアが内蔵された弾頭の貫通能力は特殊であるため、専用のボディアーマーでなければ防ぐことができないのだ。
 しかし、それは大した問題ではなかった。
 訓練を受けていない人間の撃つ弾など、二日酔いの朝でも当たらない自信がジキルにはあった。
  
 ブービートラップ-03へ続く
  |