第2話
 ブービートラップ
 
 新宿御苑にほど近い通りに、その雑居ビルは建っていた。
 一階はコンビニエンスストアとラーメン屋。二階は喫茶店。常に人の出入りがある。
 しかし午前七時半現在、まだコンビニ以外の店鋪のシャッターは閉まったままだ。
 主に事務所や店鋪が入居しているこのビルで、こんなに早い時間に慌ただしい声が聞こえるのは、七階だけなのであった。
 「社長、できましたよ〜。すげェ、似合いますよン」
 鏡の中で、時計の針が動いている。
 美容院の壁で見かけるような左回りの時計。鏡に映って初めて、正しい時を刻んでいるのがわかる。
 その時計の横に、二つの顔が映っていた。
 椅子に腰掛け、肩に白いタオルを掛けているのが、この住居の主人、ジキル。
 後ろに立ち、彼のヘアスタイルを指で整えているのが、仕事上のパートナー、スバル。
 こうやって二人で鏡に向かうのは、この時間の二人の日課なのであった。
 「やっぱり海で海苔の佃煮買ってきてあげてよかった〜。もう、全然違うんスよ、前とは手触りが」
 「そない違うもんかなぁ?」
 「もともとの髪質がいいんでしょうね。それにしても、こんなにすぐケアの結果が出る人、美容院時代の客でもいなかったっスよ」
 「そぉ?」
 「ヴァージンヘアってやつですね。ああ、羨ましいっ!」
 本日のジキルの髪型は、パンキッシュな逆毛だった。
 洗えば落ちるカラースプレーで、ところどころが真紅に染められ、ハードなイメージだ。
 前髪とサイドの髪を生え際からすっきりと上げ、フェイスラインを出している。
 スバルは、現在はジキルが経営するブティックの店長だが、もともとは美容師だった。
 美容師を辞めた理由はいろいろあったが、対外的にはパーマネント剤のアレルギーということになっている。それも決して間違いではない。
 彼はジキルの長い髪をセットしたがり、定休日以外はいつもこうして、朝から家を訪ねている。
 美容師としての勘を鈍らせたくないのだろうと、ジキルはスバルの好きにさせていた。
 定休日にはサーフィンを楽しむため、スバルの肌は浅黒く灼けていた。
 年齢は、ジキルよりも五歳下の二十五歳。
 前髪を無造作に伸ばし、サイドとバックの長さと揃えている。サーファーらしい、ラフなボブスタイルという感じだ。
 細身だが筋肉質な体は、小柄なジキルと並んで比べるまでもなく、引き立っていた。
 「じゃ、眼帯当ててくれます? 後ろの紐、髪で隠すようにするんで」
 スバルに言われて、ジキルは鏡台の上に置いてあった眼帯を取り、左目に当てた。
 彼の前で素顔を晒すことには慣れていた。
 落ち窪み、変形した醜い瞼を見ても、スバルは何も言わなかった。
 慣れてしまったのではない。最初から気にしなかった。だからジキルは安心できた。
 眼帯は、ブティックの人気商品でもあった。奇抜なファッションを彩るアイテムとして、パンク少年やゴスロリ少女たちに支持されている。
 ジキルかスバル、どちらかがデザインをして縫うため、多種多様の形がある。
 ジキルのように本当に失明している人間でなければ、位置を固定するためのゴム紐を使う必要もない。長い紐を後ろで結んだり、ボタンやマジックテープで留める商品もある。
 今日の眼帯はスバルの手作りで、黒地にピンクの「にくきゅう」マークが入っていた。
 海外では、カラフルな眼帯は珍しくない。片目を失っても前向きな姿勢でいようとする意識が強いからだろうと、ジキルは思っていた。
 スバルは、ジキルが頭の後ろに回した紐の位置を整え、その上に後ろの髪をかぶせた。
 そして鏡の中のジキルを見つめながら、きらきらと目を輝かせた。
 「んー、可愛いっ! もー、かンわいいっ! 社長っ! しゅりしゅりしたいィ」
 「そぉ?」
 満更でもない様子で、ジキルは笑った。
 スバルの、ジキルに対する崇拝は、時折ひどく度を越えていた。
 彼にはこの隻眼の雇い主が、天使に見えるに違いない。
 「もうっ、もうっ、我慢できない。キ…キスしていいっスかっ?」
 「ええで」
 「くぁ〜〜〜っ! それじゃ、遠慮なくっ!」
 息を荒げてスバルは、ジキルの座っている椅子を回転させた。
 両肩をグッと掴み、姿勢を低くしつつ、顔を近付けて行く。
 その時、リビングに駆け込んできた人影が、超音波のような奇声を発した。
 「だめーーーーーーっ!!!!」
 耳がキーンとして、スバルは行動が抑制された。
 ゲームで言えば、マヒ状態という感じだ。一ターン攻撃できない。
 ジキルは慣れているようで意に介さず、ゆっくりと声のした方向を見つめた。
 「アリサ、遅刻するで」
 アリサは頬を膨らませ、両手を腰に当てて仁王立ちしていた。
 黒いフリルのついたエレガントなワンピース。ポイントに赤い生地が使われ、白いレースがバランスよく配置されている独特のデザイン。
 服飾デザイナーでもあるジキルが仕立てた一点ものである。
 アリサはつかつかと二人に歩み寄り、一層大きくふくれてみせた。
 「そんな髪型、だめー!」
 「ア、アリサ姫〜。お気に召しませんかぁ?」
 行動不能の呪縛が解けたスバルが、泣きそうな顔で尋ねた。
 アリサはとがらせていた口を元に戻し、少し申し訳なさそうにスバルを見上げた。
 「ちがうの。いつもならカッコいいけど、きょうはそれじゃダメなの」
 そう言うと、アリサは再び眉を吊り上げた。
 どうやら怒りの鉾先はジキルに向いているらしい。
 ジキルはきょとんとした様子で、アリサと目を合わせ、首を傾げた。
 「ジキル、わすれてる! きょうは父兄参観日なんだよっ!」
 「……あ」
 「ちゃんとスーツ着てくれるって、やくそくしたじゃないっ!」
 「ああ……」
 「社長、ホントですかぁ?」
 「……」
 「……」
 朝のリビングを静寂が包んだ。
 スイッチを切り忘れたコーヒーメーカーの、水が蒸発する音だけが聞こえていた。
 その沈黙を破って、
 「すまんっ!」
 開き直ったジキルの堂々とした声が響いた。
 「そんなぁ〜」
 スバルの滝のような涙が、ジキルの罪悪感を刺激した。
 ジキルは黙ってスバルに抱きつき、瞳を潤ませながら彼の顔を凝視した。
 「またカレー作ったるから、許してェなぁ〜」
 大抵の場合、スバルの機嫌はこれで直ることを彼は知っていた。経験により得たデータを悪用しているだけだったが、まんまとスバルは騙された。
 「えへへ。社長のカレー、うまいっスもんねェ」
 「そやろ? な? な? 食いたいやろ?」
 「ま、仕方ないっスね。じゃ、せめて写真だけでも。今日のは自信作なんスよ〜」
 「うんうん、撮って撮って♪」
 ジキルは愛想を振りまきながら、Vサインを作ってみせた。
 しかしスバルがポケットからカメラ付き携帯電話を取り出した時、鏡に映った時計を見たアリサが慌てた様子で叫んだ。
 「きゃっ! スバル、はやくクルマ出してェ。アリサ、ちこくしちゃうよぅ」
 「えっ? もうそんな時間……」
 「はやく、はやく!」
 「しゃ、しゃちょ〜」
 アリサに手を引かれ、スバルはズルズルと引きずられて行った。
 残されたジキルは大きな溜め息をついて、しばしその場に立ち尽くした。
 「すまんの〜。スバル」
 ジキルは名残惜しそうに鏡を見つめ、やがて、髪を洗うためにバスルームへと向かった。
 せっかく整えた髪だったが、父兄参観日に髪を立てて行くわけにもいかない。
 滅多に着ないスーツも引っ張り出さなくてはならない。クローゼットのどこにスーツ類を下げておいたかという記憶をまさぐりながら、ジキルは眼帯を外し、服を脱ぎ始めた。
 一方、スバルは玄関まで連れて来られていた。
 「ん? アリサちゃん、ちょっと待って」
 スバルはドアポストの中に郵便物を確認した。
 ポストを開け、中を見ると、赤と青の縞模様が入った封筒が落とし込まれている。
 「エアメールだ」
 「ジキルにおてがみ?」
 「でも郵便は、六階の店の方に届くはずだよね? じきる堂宛てになってるのに、どうして自宅の方に」
 「なんか、メモがついてる。なんて書いてあるの?」
 「えーと、四階の探偵事務所の神田さんだ。誤配されてたんでお届けしますってさ」
 「ごはいって?」
 「郵便屋さんが間違えて、四階に配達しちゃったんだよ。社長宛てなのがわかって、こっちに持ってきてくれたんだろう」
 「じゃあ、ジキルにわたしてくる!」
 アリサは手紙をスバルの手から奪い、どたどたとリビングに走って行った。
 スバルは下駄箱を開けて、今日のアリサのワンピースに似合う靴を選び始めた。
 「じきるー。おてがみ来てるよー」
 アリサが部屋に入った時、ジキルはすでにバスルームへと移動した後だった。
 シャワーを使っている音が微かに聞こえる。
 「おへやに置いとくよ!」
 ドア越しにジキルに声をかけるが、返事はなかった。
 構わず、アリサは手紙を持ってジキルの部屋へと走って行った。
 そしてジキルの部屋のデスクに手紙を置くと、大慌てで玄関へ走り、スバルと一緒に家を出て行った。
 ジキルはシャワーを浴びながら、真っ赤なカラースプレーが流れ落ちて行く様を残念そうに見つめていた。
 水に溶けた赤い色が、渦を巻いて排水溝に流れていく。
 「おっ、サイコや」
 ヒッチコックのモノクロの映像を思い浮かべながら、ジキルはシャンプーで髪を洗った。
 もちろん、アリサの声は聞こえていなかった。
      *
  
  
 ブービートラップ-02へ続く
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