BACK


第3話
エメラルドの秘密

 
東京、新宿のミリタリーショップ[じきる堂]。
原宿に位置するのは、ブティック[JEKYLL-DOU]。
どちらも経営者は同じである。
今年、2005年の二月に二十代最後の年に突入した彼の名はジキル。もちろん本名ではない。
失った左目を覆う眼帯。長い黒髪。160センチに0.1ミリ満たない短躯。
彼は今、シャツの袖を肘まで捲って、キッチンで汁椀に味噌汁をよそっていた。
豆腐とワカメのコラボレーションは、彼が最も愛する組み合わせである。
ダイニングテーブルの上には、焼き魚と大根おろし、ごぼうサラダ、いちご入りヨーグルト、そして納豆が並んでいる。
ジキルの家の朝食は、もっぱら和食だった。

「アリサー。メシやでー。早よ食わんとなくなるでー」

ジキルが呼び掛けるのと同時に、リビングから、どたどたと走る音が聞こえてきた。
足音は次第に近付き、やがて最大級に大きくなった。リビングと繋がる扉が開き、足音の主が飛び込んでくる。

「取っちゃいやー! ちゃんと食べるー!」

ダイニングに響き渡る声の音量が、足音を凌駕した。
ブロンドに黒い服。色白の肌にブルーの瞳。まるで骨董品屋に売っているアンティックドールのような少女が、ちょこんと椅子に座った。
彼女の名はアリサ。まもなく小学三年生になる。
今日のアリサの服は、ギャザースカートとタートルネックの黒いブラウス。肩の部分が開いており、身頃と袖とが分断されている。レースを多く使った、中世ヨーロッパ風のファッションである。俗にゴシックロリータと呼ばれる。
アリサはにこにこと笑いながら、胸の前で手を合わせた。

「いただきまーす」

ようやく和食にも慣れてきたアリサである。
ジキルも箸と御飯茶碗を持ち、アリサと向き合って朝食をとり始めた。
火曜日の朝は、他の曜日とは少し違う。
ジキルの専属美容師兼仕事のパートナー、スバルが来ない日なのだ。

「ねー、ジキル。きょうは、スバルからメール入ってた?」
「ああ、画像届いてたで。メシ食ったら見せたるわ」
「すばる、サーフィンしてるとき、いちばんカッコいーねっ」
「そやなあ」

ブティックの定休日は火曜日である。
普段は朝からジキル家を訪問するスバルだったが、定休日はそれもお休みである。
そのかわりに、サーファーである彼はいつも海から画像を送信して来るのだった。
今日のメールには、『愛する社長へ』とハートマーク入りのサブジェクトが付いて、砂浜で写した画像が添付されていた。

「ごちそーさまー!」

食べ終わったアリサは、慌ただしく歯を磨きに洗面所へ走っていった。
ジキルは使用済みの食器をすべて食器洗い機にセットして、スイッチを入れた。

「四つ葉のクローバーを〜、さがして〜♪ いつまでも〜こうしていたいのー♪」

ジキルがキッチンを出ると、アリサが鏡台の前で歌を歌っていた。
本当におしゃれが大好きな少女で、時間さえあれば髪をとかしたり、アクセサリーを着けたりしていた。

ジキルは自室で服を着替えた。
イバラが巻き付いた短剣のデザインがプリントされているシャツにジーンズ。
彼の部屋はまるでブティックの倉庫だった。ずらりと服が並んだパイプハンガーが四方に置かれている。そのうちの三分の一は、自分でデザインをして縫ったものだ。
部屋の一角はパーテーションで区切られた工房である。机の上は常に、糸や布、ボタンやファスナーなどがごった返していた。ミシンも常時稼働中という趣だった。

「アリサ、支度できたか? もう出るで」
「はーい」

普段はスバルがアリサを学校まで送ってくれる。
しかし火曜日は、ジキルが自らその役目を果たすのであった。
ジキルは身支度を終えると、アリサを連れて自宅を後にした。

     *

アリサを小学校に送り届けて帰宅したジキルは、真直ぐ六階の店鋪へ向かった。
下校時刻には、また車で迎えに行かなくてはならない。
ブティック[JEKYLL-DOU]の定休日は、アリサの看板娘の仕事も休業である。

エレベーターが六階に到着した。
早起きをしたジキルは大あくびをしながら、エレベーターを降りた。
その時、店の前に人影を発見し、ジキルは驚いた。

「じきる〜〜〜〜っ! ぐっもーにんっ!!!」

いきなり正面から抱きつかれた。
フランス軍の迷彩服。エンジ色のベレーの下は金髪。猫のように大きな目。淡いブラウンの瞳。少年のような屈託のない笑顔。
ジキルの知る限り、こんな容姿を持つ人間は一人しかいない。

「ナ…ナッキーさんっ」

彼の名は日向夏樹。日本を代表するロック・ミュージシャンである。

「元気だったぁ? マイ・フレンド〜〜〜」
「は、はあ。おかげさんで」
「今日もかわいーねっ。でも、髪の毛テキトーだ。あっ! そーか、今日はスバルっちが来ない日か。残念〜。こう、ギンギンにパンクなヘアーが見たかったのになぁっ!」
「あ…あのー、店……開けますんで……」
「当たり前だろっ。いつまでこんな寒いとこに立たせとくつもりなんだよ! 春っていっても、まだまだ寒いんだからなっ!」
「はあ……すんませんです」

夏樹のテンションの高さについて行けないのは、いつものことである。
まだ時刻は店の営業開始時間の遥か前であるというのも、言わないのがお約束であった。

夏樹はジキルよりも七歳年上だったが、二人とも、年の差を感じたことはなかった。
数年前、芸能界きってのミリタリー・マニアである夏樹がふらりと[じきる堂]を訪れた日、ジキルは驚きのあまり腰を抜かしそうになった。
彼は日向夏樹のファンであった。正確には、かつて夏樹が期間限定で組んだユニットの熱狂的なファンなのである。
そんなふうに知り合い、共に時間を過ごすうち、二人は店主と客という関係を越えた友人となっていた。
母親が米国人で父親が日本人であることや、幼少時代は米国で過ごしたという境遇。二人の共通点は多い。
もっとも、ジキルにとっては、まだまだ夏樹は憧れのアーティストであり、越えられない壁が存在した。
しかし夏樹は、そんなことはお構いなしだった。彼は誰とでも気さくに話し、すぐに友達になった。天性の社交性と天真爛漫さが、夏樹の大きな魅力であった。

ジキルは店のシャッターを開け、夏樹を中へ招き入れた。
夏樹の後から、彼のマネージャーもペコペコと頭を下げながら入店した。
夏樹の行くところには、いつでもこのマネージャーがついて回る。その状況には、ジキルもすっかり馴染んでいた。

「今日はさあ……、買い物ってゆーより、頼みがあって来たんだよね」

電気をつけて換気扇を回すジキルに、夏樹が話し掛けた。
ジキルはカウンターの奥から椅子を持ってきて夏樹に勧めながら、興味深そうに話を聞いた。

「頼みて、何ですの?」
「次の曲のPVで着る服、作って欲しいんだけど」
「そりゃもう。ナッキーさんのためなら喜んで!」
「だいじょーぶ? 忙しくない?」
「いやいやいやいやいや。もー、他の仕事放ったらかしても、最優先させていただきまっせ!」
「ありがと! だからジキリュちゃん好き〜♪」
「ほな、採寸しましょか」

早速、ジキルはメジャーを取り出し、夏樹を立たせて採寸を始めた。
夏樹の衣装は何度もデザインしたことがある。金に糸目をつけず、好きなだけレザーを使わせてくれる仕事がジキルは好きだった。
夏樹がプロデュースするアイドルグループの少女たちの衣装制作も、ジキルの定期的な仕事の一つである。
鼻歌を歌いながら楽しそうに採寸をするジキルに、夏樹は不思議そうな顔で尋ねた。

「ジキルはさー、どうして服を作るのが好きになったの?」
「んー……自分でも、ようわからんのですけど。まあ……そやなあ……」
「子供の頃からデザインとかしてたの?」
「いやいや全然。まあ、絵ェ描くんは好きでしたけど。何やろ……スケッチとか……あのー、風景とか静物とかの。それが、何や違うなぁ、思い始めて」
「違うって?」
「んー……」

ジキルは困ったように首を傾げた。うまく気持ちを伝えるために、言葉を選んでいるという印象だった。
しばらく考えて、ジキルはたどたどしく話し始めた。

「あのー、自分、いうもんを……。ワシ……、そういうもんを持ってへんのですよ」
「自分?」
「自分らしさ、とか。何やろ? アイデンティティ? いうんでしたっけ? そういうもん、ようわからんので、ワシ。服作れば、何やそういうもんわかるかなぁ、思うたみたいなとこがあって」
「自己表現ってこと?」
「服…て、そういうのん、ありますやんか。着こなしとか、そういう。そういうとこから、自分いうもんが見えてくるかなぁ、みたいな」
「自分らしさ、かあ……。でもジキルはジキルらしいとこ、いっぱいあるじゃん」
「それはほら、人から見たワシであって。ワシ自身は何も考えてへんし、ようわからんのですよ」
「そう言われると、僕も自分らしさって何なのか、わかんなくなってきちゃったよぅ」
「ナッキーさんはほら、ワシみたいな一般人と違うてスターやから。『らしさ』の固まりですやんか。……と、それでは。コンセプトみたいなん、あります?」

ジキルは早々に話を終わらせた。
夏樹は少しの間、ジキルが話したことの意味をいろいろと考えている様子だったが、やがて諦めたように、

「よくわかんないけど、ジキルは充分に自己表現できてると思うよ」

と、言った。
ジキルは少し笑っただけで、特に何も言葉を返さなかった。
夏樹はそれ以上同じ話題を続けることをやめ、ジキルの質問に答えた。

「コンセプトっていうんじゃないんだけど……」言いながら、夏樹はジャケットの胸ポケットに指を突っ込んだ。「これを着けるから、これに合ったデザインにしてほしいの」

夏樹が取り出したのは、細いチェーンとレザーで作られたチョーカーだった。
中央に緑色の宝石がはめ込まれている。

「でかっ!」

ジキルは驚嘆の声を上げた。
直径2.5センチはあるだろうか。見たこともないサイズのエメラルドだ。
口をあんぐりと開けて凍り付いているジキルに、事も無げに夏樹が言った。

「30.17カラットだって」
「さ、さんじゅ……」
「ファンってゆーか、パトロンにプレゼントされたから、映像に残しとかなくちゃさ。みんなそういうの、喜ぶしね」
「プレゼント……ですか。こない高価そうなもんを……」
「うん」
「30.17カラット……30……。……。……っ!」

一瞬、ジキルの顔色が変わった。
夏樹はエメラルドを見つめていたため、それには気付かなかった。
ジキルは何かを思い出そうとしているかのように、視線を宙に泳がせた。
そして、一回深呼吸をしてから夏樹に尋ねた。

「これ、オーバル・カットいうんでしたっけ?」
「うん。よく知ってるね。エメラルドは普通、エメラルド・カットにしてあるんだけどね、四角の四隅を切り落としたようなカット。これはすごい珍しいよ。楕円形のオーバル・カットだもの」
「……」
「エメラルドはすごい割れやすいから、複雑なカットはしないんだけどね」
「30.17カラットで、オーバル・カットのエメラルド……」
「ね? だから、これに合う服を作ってほしいんだよ。スタイリストさんとも相談したんだけど、ジキルにオーダーするのが一番いいだろうって話になってさ。いつもイメージ通りの作ってくれるしね……って、ねえ、ちょっと聞いてる?」
「あ! は…はぁ。そうですねぇ」

ジキルは魂を奪われたような顔で、エメラルドを見つめていた。
吸い込まれるような深い色合い。ジキルの瞳も緑だったが、それよりももっと濃い色をしている。
エメラルドは、その緑色が強いほど高価であると聞いたことがある。

「あのー、差し支えなければこれ、いかほどの……?」
「わかんないよ。貰ったんだもん」
「はぁ……」
「何かオークションで落札したとか言ってた。結構いい値段したみたい」
「それは、最近の話……?」
「うん。数日前」
「数日前……」

喋りながら、ジキルはエメラルドから目を離せずにいた。
やがて、マネージャーが時間を知らせ、夏樹は慌てて椅子から立ち上がった。
そして、スタジオで撮らせたらしいチョーカーの写真を何枚かジキルに渡すと、名残惜しそうに店の扉を開けた。

「明日と明後日以外は昼間なら暇だから。デザインできたら教えて」
「ほな、電話しますわ」
「うん。それじゃまたね〜。アディオス、あみーご!」

手を振って、夏樹は店を出て行った。
二人を見送り、ジキルは写真をじっと凝視した。

「30.17カラット。オーバル・カット。間違いないわ、多分……。あのエメラルドや」

そう呟くと、ジキルは写真をポケットにしまった。
すぐにカウンターの奥のスペースで、ノートPCを立ち上げる。
しばらくの間、夢中で何かを調べているようだった。
PCを終了させた後は、慌ただしくどこかに電話をかけ、英語で何事か相談した。
そして、店を出るとシャッターを閉め、忙しそうにエレベーターに乗り込み、四階のボタンを押した。
 
 

エメラルドの秘密-02へ続く