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学校に不法侵入した男は、刑務所を出所したばかりだった。
ジキルが思った通り、この校舎が工事中の時、天井裏にアタッシェケースを隠した。
その時の仲間は三人。そのうちの一人が、あのトラップを仕掛けた。その犯人は未だ、塀の中である。
仲間の中で最も下っ端であった男は、トラップを外す術を知らず、今回の犯行に及んだのである。仲間が服役中のうちに、金を一人占めにして逃亡しようと企んだのだ。
これらの話は、事件からしばらく経過した後、ワイドショーで報道したものである。

事件から数日後、ユリとその両親がじきる堂へやって来た。
涙を流して礼を言う二人を見て、ジキルは心の中でそっと祝杯を上げた。彼らが、あの日の父兄参観日に来られなかったという幸運に。

ユリとアリサは、事件以来すっかり親密になった。
次のアリサの誕生日には、ユリも家を訪れるだろう。
二人は時折、声を揃えて「じきるー!」と呼んだ。しかしすぐにユリは頬を赤らめ、小さな声で「オジちゃん」と言い直すのだった。

人質になったユリの心の傷は、ジキルとアリサによって急速に修復されていた。
両親の共働きで常に孤独だった少女は、事件以降、前よりも明るく笑うようになった。
もちろんこれは、事件から数ヶ月以上経ってからの話である。

     *

事件当日の夜。
ジキルは警察に呼ばれ、いろいろと話をさせられた。
ようやく解放された時には、とっぷりと陽が暮れていた。

ジキルは、原宿のブティック[JEKYLL-DOU]に寄った。
この世の終わりのような顔をしたアリサを、スバルが力一杯慰めていた。
ジキルの姿を見つけると、アリサは堰を切ったように泣き出し、彼の首にしがみついた。
スバルはジキルの無事を喜び、背後から思いきり抱き締めた。
壮絶な力で前後から抱きつかれたジキルは、呼吸困難に陥った。

置き去りにされたアリサは、ずっとジキルの身を案じていた。
犯人がジキルとユリを連れて行ってしまった後、学校側は父兄と児童を強制的に下校させた。
父兄が来ていなかった児童たちは、教師が先導しての集団下校となった。
アリサもその中に混じって学校を後にしたが、特別にタクシーで原宿の店まで送られたのだった。
教師は店長のスバルに事情を話し、もしかしたら、とジキルの死亡の可能性を示唆したらしい。
おかげで、[JEKYLL-DOU]の方も、午後は臨時休業になってしまった。

スバルに車で送ってもらい、ジキルとアリサは自宅に着いた。
スバルは何度もジキルの両手を握り、ひとしきり愛情表現を行ってから帰宅した。
エレベーターに乗っている間も、アリサはジキルの服を両手で握って離さなかった。服が汚れるから、といくら言っても言うことを聞かなかった。

ジキルは自室でスーツを脱ぎ捨て、アリサを連れてバスルームへ直行した。
体中が汚れていた。早く洗い流してしまいたかった。

風呂に入る時はいつも、ジキルはタオルで左目を隠した。
アリサは、未だにジキルの傷痕を恐がることがあった。
確かに醜い傷痕は、8歳の少女には刺激が強いかもしれない。
特に今日のようにアリサがくっついて離れない時は、タオルを落ちないように巻くのが大変だった。

「ねえ、じきる。ねえ、じきるー」

アリサは、片時もジキルから離れようとしなかった。
浴槽で湯に浸かりながら、ジキルの膝の上に登ってくる。
ジキルは帰って来るまでに何十回も聞かされた話をもう一度聞いた。
子供は同じ話を何度もしたがるものだ。

「アリサ。今日はホンマ、偉かったなぁ」
「うん。ジキルが行っちゃって、さびしかったよ。でも、みんなスゴイって言ってたよ、ジキルのこと」
「ワシの話はええがな。アリサはあの後、すぐ帰ったんか?」
「うん。すぐにみんな、げこうになったよ。でもアリサね、ジキルをまっていたかったの。だから、かえりたくなかったの。でもね、先生たちが……」
「すまんかったな、置き去りにして」
「じきる、じきる、しんぱいしたんだよっ」

アリサはまた泣き出した。
泣き声が浴室の壁に反響する。
ジキルは濡れた指でアリサの涙を拭った。

結果的に事件は解決した。しかしアリサの心に残ったしこりは、なかなかほぐれなかった。
ジキルが少し疲れて黙ると、途端にアリサは悲しそうな表情になった。
置き去りにされる苦しみは、ジキルもよくわかっている。自分は見捨てられたのだと認識させられる時のあの感情は、他のどんな不幸よりも心をえぐった。

「ジキル、もうどこへもいかないで。アリサをひとりにしないでよう」

アリサはジキルに甘えながら、湯の中でぺったりとくっついてきた。
ジキルの太腿と膝を滑り台のようにして遊んでいる。
年増好みのジキルにとって、アリサは可愛い娘というだけだったが、さすがに物理的刺激には弱いものがある。
このままだと、バスルームで新たな事件が起きてしまいそうだった。

「なあアリサ。ちと降りて。ワシャ、髪洗うから」
「やー」
「アリサぁ。ちゃんと洗わんと、明日スバルが困るやろ?」
「むぅー」

渋々、アリサはジキルの膝の上から降りた。
いろいろな意味で落ち着いたジキルは、浴槽から出て、洗い場でシャワーを使い始めた。
天井裏のホコリと手榴弾による粉塵で、髪の毛はゴミだらけだった。
アリサはつまらなそうに、湯に浮かべたアヒル隊長をつついて遊んでいる。
それを見て、ジキルはシャワーを止め、アリサに話しかけた。

「アリサ、ほら、あの歌、歌って。アリサの好きな歌」
「ん……うん!」

アリサは嬉しそうに笑って、浴槽の淵に両腕を乗せ、歌を歌い始めた。

「ひとみにーやくそくー、あのひのー、おもいでー♪」

ジキルはホッとして、シャンプー剤を手に取り、髪を洗い始めた。
歌っている間に、面倒なことは済ませてしまおうと思った。
とにかくしばらくの間は、徹底的にアリサの機嫌を取る必要があった。

「ふたりのー、こいはえいえんにーつーづーくー♪」
「ハァ、よいよい」
「みつめてー♪」
「ハー、どっこい」
「もー! ジキルが歌えっていったのにー! じゃまするー!」

アリサははしゃぎながら、浴槽の湯をジキルの頭にバシャバシャとかけた。
そして、何かを思い出したように声を上げた。

「……? どうしたん、アリサ?」
「あした、がっこうおやすみ」
「ん? そうなん?」
「うん。りんじきゅうこうだって。あーあ、あした、音楽あったのに」

臨時休校でなくても、おそらく音楽室は使えないだろう。
ジキルは音楽室の天井を吹き飛ばしてしまったことを、心の中でだけ謝罪した。
そして、ふと思い立ったことをアリサに提案した。

「ほな、どっか遊び行こか」
「えっ、ホント?」
「おう。どこがええ? 遊園地? 動物園? バーベキュー?」
「うーんと、うーんと、バーベキューがいい!」
「よっしゃ。スバルも誘お。三人で行こうや。遠足や、遠足」
「うわぁーい! やったぁ〜!」

アリサはバシャバシャと湯の表面を叩いて喜んだ。
ジキルは胸を撫で下ろした。少しは罪滅ぼしになるだろう。

「じゃあアリサね、スバルにめーるするー!」
「おう。明日、いつもの時間に来るだけでええて書いといて」

その時、思い出したようにアリサが言った。

「そーだ、ジキル。おてがみよんだ?」
「手紙? 何やそれ?」
「朝、おてがみきてるよって言ったじゃない」
「そやったっけ?」
「おへやにおいてあるよ!」

そこまで言うと、アリサは早く上がりたいと駄々をこね始めた。
そして、ジキルが長い髪を洗い終わるまで、さっきの歌の続きを歌っていた。
なぜか、アリサが日本へ来る前から知っていた日本語の歌である。
ジキルと初めて会ったその日から、彼女はいつでもこの歌を口ずさんでいた。

バスルームを出ると、アリサはバスタオルで体を拭くのもそこそこに、携帯電話でスバルにメールを打ち始めた。
ジキルは後を追いかけて、パジャマを着せなければならなかった。
機嫌のいい時のアリサは、少しもじっとしていない。
しかし、それぐらいの方がジキルは安心だった。
彼女の瞳を曇らせることだけはしたくなかった。

はしゃぎ疲れたアリサがベッドで眠った後、ジキルはそっと布団から抜け出し、静かに部屋のドアを閉めた。
自室に行き、机の上のエアメールを見る。
鋏で封を切り、三つ折りの便箋を広げた。便箋の間から、一枚の写真がはらりと落ちた。
ジキルはしばらく無言で文章を読んでいた。
そしてすべて読み終わると、便箋を机の上に放り投げた。
床に落ちた写真を拾おうとはしなかった。
ジキルはベッドに腰を下ろし、煙草に火をつけ一服した。
足下に、マオカラーのスーツが脱ぎ捨てられていた。ジャーマングレーが薄い灰色に見えるほど、白い綿ボコリが付着していた。

ジキルは緩慢な動作で、枕元の電話の受話器を取った。
電話器は二台置いてある。ジキルが取ったのは、プライベート用の赤い電話だった。
呼び出し音を聞きながら、ジキルは煙草を吸い続けた。煙を吸っては吐き、吸っては吐き、とせわしなく繰り返す。
やがて、電話は繋がった。受話器の向こうは合衆国だった。

「ハロー?」

高音の、女性の声。
ジキルは最後の煙を吐き出すと、煙草を灰皿で揉み消した。

「マ……、いや、おかん、久しぶりやな」
『ジェド?』
「ああ」

ジキルは頷きながら、呟くように返事をした。
相手は英語だったが、彼はわざと日本語を用いた。

『ジェド、元気にしてるの?』
「ああ、元気やで。そっちも元気そうで安心したわ」
『手紙にも書いたけど、私……』
「ええんちゃう? おかんの人生やもん。好きにしたら」
『投げやりね。怒ってるのね?』
「ちゃうがな。別にワシはどっちでもええねん」
『私だって、死ぬまであの人を待ちたかった。でも…』
「三十年、何の連絡もないんや。もうとっくに死んでるがな」

ジキルは苛ついたように早口になった。
母に対して腹が立っているわけではない。それなのにいつも、こんな口調になってしまう。再婚の話など相談されたら尚更だ。

『写真、見てくれた? 彼の』
「ん? んー、ああ、ええんちゃう?」
『できれば、ジェドにも会ってほしいのよ。一度、こっちへ来てくれない?』
「んー、ちょう難しいわ。忙しいし」
『写真を見せたら、素顔が見たいって。どうしていつも、サングラスをかけて撮るの?』
「あー……ほな、まあ、そのうち」
『ソノウチ、ソノウチって、あなたもう何年も』

ジキルの母メアリーは、「そのうち」だけを日本語で言った。
そして、日本語は本当に曖昧な約束をするのに向いている言語だと笑った。
その時、隣の電話が鳴った。店にかかってきた電話の転送である。

「すまん、電話入ったわ。またメールする」
『ちょっと、ジェディ…』

母親の声が途切れた。
ジキルは軽く頭を振って、頬を掌で叩き、すぐに受話器を取った。

「毎度ありがとうございます。じきる堂です」
『ジキルくんかね』

聞き覚えのある声だった。今日の朝、電話で話したばかりの声だ。
ジキルは平身低頭して頭を下げながら謝罪した。

「あーーーーっ! す、すんませんっ! 今日は伺えなくて、その」

手榴弾を使ってしまった上、商談まですっぽかしてしまったのだから仕方がない。
電話の相手は大きな溜め息をついて、言葉を続けた。

『申し訳ないが急いでいたんでね。ロシア製のを使うことにしたよ』
「へ? ほな……」
『また何かあったら連絡する。今回の話はなかったことに』
「そ、そんな! 明日、必ず伺いますからっ」
『それじゃまた』

電話はガチャリと切れた。
ジキルはがっくりとうなだれて受話器を置いた。

「だーっ! ええ儲け話やったのにーっ!!」

拳を握りしめ、ベッドをパンチするジキルだった。
……が、すぐにケロッとした表情で、床でくしゃくしゃになったスーツに手を伸ばした。

「ま、ええか」

スーツのポケットから、札束を取り出す。
天井裏のアタッシェケースからネコババしてきたのである。

ジキルは札を束ねている紙テープを破り、空中に紙幣をばらまいた。
一万円札が宙に舞い踊る。
ジキルは白い歯を見せて笑いながら、ベッドに横になった。
そして、ひらひらと舞い落ちる金に抱かれるように眠りについた。
明日は、この金で豪勢にいったろ。そう思いながら。

(了)
 

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